虚しさから逃げない人は、なぜ好かれるのか
——この本を読んで、日本の「おじさん」について考えたこと
この本を読んでから、なぜか友人との集まりで同じ話題が何度も出るようになった。
それは「日本のおじさん、なぜあんなに嫌われがちなのか」という話だ。
もちろん、すべての中高年男性がそうだと言いたいわけではない。
でも、多くの人が「会ったことのある、嫌な印象のおじさん」を思い浮かべると、
なぜかかなり似た人物像にたどり着く。
それが不思議で、この本の内容と重ねながら考えてみた。
本の中で繰り返し語られていたのは、「虚しさ」や「間(あいだ)」という感覚だった。
人は誰でも、満たされない時間、喪失、不在、どうしていいかわからない空白を経験する。
それは異常でも失敗でもなく、生きていれば必ず訪れるものだと本は言う。
けれど、日本の男性社会では長い間、
「我慢しろ」「男は泣くな」「結果を出せ」「勝て」
と教えられてきた。
感情や不安、虚しさを外に出すことは良しとされず、
それを誰かに聞いてもらう練習も、言葉にする訓練も、ほとんど与えられてこなかった。
その代わりに、虚しさや不安を埋める手段として用意されたのが、
仕事、立場、年功、肩書きといった「役割」だったのだと思う。
若い頃は、忙しさや競争の中でそれがうまく機能する。
でも年を重ねると、成長は鈍り、役割は空洞化し、
それまで役割で埋めてきた「間」が、否応なく露出してくる。
そのとき一部の人は、
上下関係にあぐらをかく、
虚勢を張る、
説教やマウントで自分を大きく見せる、
という生存戦略に移行してしまう。
本人にとっては必死なのだと思う。
でも周囲から見ると、その無理は驚くほどわかりやすい。
「この人、虚しさから逃げているな」ということが、
言葉より先に伝わってしまう。
だから「日本のおじさん」という存在は、
個人の性格以前に、似た教育と抑圧の中で作られた
“類型”として嫌われやすくなってしまったのではないか。
一方で、この本が示しているのは、まったく逆の姿勢だ。
虚しさを消そうとしない。
間をすぐに埋めない。
強がらない。
自分の中の沼を否定せず、抱えたまま生きる。
そういう人は、年齢や性別に関係なく、なぜか一緒にいて楽だ。
安心できる。
それはきっと、その人が「間」に耐えられるからだと思う。
虚しさは、隠すべき欠陥ではなく、
創造や想像が生まれる余白でもある。
この本を読んでから、
「どう老いるか」「どんな大人でいたいか」を
初めて自分の問題として考えるようになった。
日本のおじさんが嫌われる理由を考えることは、
結局のところ、
自分は虚しさとどう付き合って生きるのか
を問うことなのだと思う。

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